2010年4月27日火曜日

リッチでないのに弾けません(毒蜘蛛円舞曲2)



1810年、ショパンが生まれた年に、栄華を極めていたナポレオンがオーストリアのお姫様と再婚した。これは、せっかく世襲制の帝政を敷いたものの、前妻とのあいだに子供ができなかったことが理由とか。縁組みをしたのはオーストリアの外相メッテルニヒ。抜け目ない。さすがハプスブルク家の切り札。もっともナポレオンは、すでにエジプト遠征に失敗し、続いてカリブ海の植民地サン=ドマングで起きた独立戦争に敗れていた。だから、不吉な予兆の暗雲は、とうに垂れ込めていたと言えるだろう。ちなみに1804年、ナポレオンに初黒星をつけて独立したのがハイチ共和国。これはアフリカ系の人々による史上初めての近代的共和制であり、かつ黒人奴隷を解放する革命だった。この3月にハイチを襲った大地震は、かねてからの混迷と荒廃をさらに深めてしまったけれど、独立時の矜恃(きょうじ)を早く取り戻してほしいと願う。

ナポレオンが法や軍事などの近代化を押し進め、神聖ローマ帝国を倒し、フランス革命の理念をヨーロッパの諸国民に輸出したことは、この僕も中等教育の中で習ったが、その陰でピアノの普及がはじまっていたことは学校で教わらなかった。ピアノ自体は18世紀の初めにイタリアで原型ができ、その後はドイツを中心に改良が進む。18世紀後半までには音楽の都ウィーンをはじめヨーロッパの大都市には、ぼちぼち見られるようになっていた。1750年に死んだ大バッハは、ピアノの製作者に求められ、助言を与えたものの作曲活動には間に合わず、1791年に死んだモーツァルトは、この新しい楽器の音色に感激して愛用し、1809年に死んだハイドンは1790年代まで様子を見たという。そして、1770年生まれで1827年まで生きたベートーヴェンは、ハイドンの弟子となって故郷のボンを離れ、ウィーンに「上京」、ようやくピアノを弾くことができた。なにしろピアノは当時、高価な最新楽器だったから、田舎で苦しい家計を支えていたベートーヴェンには手の届かないものだったのだろう。

モーツァルトが活躍した1780年代、ピアノはまだまだ成長期で、鍵盤は60くらい(現在は88くらい)、音量も今と比べて小さく、明るくて軽やかな音色しか出せなかったみたいだ。それがベートーヴェンが活躍する1800年代初めには、大きく改善されて鍵盤の数も70前後になり、ロマン・ロランがいう「傑作の森」の時代を支えたことは間違いない。

1810年、ベートーヴェン40歳。この年、今では誰もが知っているピアノ曲〈エリーゼのために〉を作曲する。その背景にはテレーゼなる貴族の娘とのかなわぬ恋愛、身分格差で結婚できなかったエピソードがあるという。ピアノとラブロマンスが結びついた楽曲が世に出た年に、「ピアノの詩人」ショパンが誕生したというのも象徴的だ。
(つづく)

鹿島茂
『情念戦争』
(集英社インターナショナル)
ピノキオブックスで販売中→










ロマン・ロラン
『ベートーヴェンの生涯』
(岩波文庫)

準古典の一冊。
新刊書店でどうぞ。








青木やよひ
『ベートーヴェンの生涯』
(平凡社新書)


みすず書房版
『ロマン・ロラン全集』
の編集に携わった筆者の力作。
新刊書店でどうぞ。





橋本治
『ロバート本』
(河出文庫)

ベートーヴェンは
騒々しくてロックな奴!
と断じるところが小気味よい
「鎧としての筋肉、または、
病理ではなく生理としての退廃
ミケランジェロとベートーベン」
などのコラムを収録

















「エリーゼのために」のメロディを使った昭和歌謡ふたつ、
不世出の双子デュオ、ザ・ピーナッツの「情熱の花」と、
ダンスアレンジ(ツイスト)でヒットした、
ザ・ヴィーナスの「キッスは目にして!」。

2010年4月26日月曜日

優男の肖像(毒蜘蛛円舞曲 1)

音楽室のピアノと肖像画。
それが小学生の僕にとって、クラシック音楽を象徴するものだった。昭和初期に建てられた木造の校舎には、弦楽器を収納するスペースも予算もなかったし、弦楽器を演奏できる生徒どころか先生もいなかった。

ピアノは小学校にある楽器のなかでいちばん大きく、またピアノ以外に黒光りするインテリアはなく、異様かつ威容を誇る存在だった。小学校のピアノは、誰にでも使えるものではなかったし、使わせてもらえなかったことも含めて、ピアノは特権的に鎮座していた。ふだん教室のオルガンを自慢げに弾いていた女の子が、いざ音楽室のピアノの前に座ると、ペダルの扱いに戸惑っていたのを今でもよく覚えている。そして、そのかたわらで、別の女の子が薄い唇の口角をかすかにあげ、笑みを浮かべていた。彼女は、式典でいつもピアノを弾いていた娘だった。オルガンは鞴(ふいご)で、ピアノは槌(つち)、そこには一種のヒエラルキー(階層構造)があり、ドラマや映画、マンガなどで見た、釜炊きの小僧と包丁人の親方みたいな関係なのかもしれないと、小学生の僕はぼんやり考えていた。

小学校の図工室には絵が1枚も飾られていかったので、なぜ音楽室に肖像画が何枚もあるのか、とても不思議だった。しかも、ちょうど流行していた少女マンガ『ベルサイユのばら』に出てくる人物たちのような、時代がかった衣装を身につけた肖像ばかりだったので、なんとなく「それくらい昔の人たち」という「くくり」で、僕は納得していた。音楽室の肖像画は10数枚はあったと思うけど、その中に『ベルばら』のフェルゼンみたいな優男(やさおとこ)がいて、それがフレデリック・フランソワ・ショパンだった。ショパンの肖像画を見たとき、僕は小学生ならではの傲慢さを発揮して「こいつとは友達になれそうにない」と直観した。ちなみに、フェルゼンことハンス・アクセル・フォン・フェルセンは、当時パリに留学していたスウェーデン貴族で、フランス王妃マリー・アントワネットをよろめかせた男だといわれる。

左がフェルセン、右がショパン

アントワネットは1793年、断首台の露となっていたが、夫であるルイ16世をはじめ国王一家は、19世紀を迎えてもまだ生きていた。とは言え、軟禁状態だったので、アントワネットの遺志を継いだフェルセンが、愛人の実家オーストリアに一家を逃がすことを計画する。いわゆるヴァレンヌ事件だ。しかし、一家を乗せた馬車は国境近くのヴァレンヌで正体を見破られ、計画は頓挫してしまう。主謀者のフェルセンも民衆の私刑にあって殺された。これが1810年の6月20日のことである。その3ヶ月ほど前、ポーランドの首都ワルシャワ郊外に生まれたのがショパン。出生届の日付に手を加えれば、三島由紀夫の『豊饒の海』さながらの物語をつむぐこともできるかもしれない。
(つづく)


 石井 宏
『反音楽史』
(新潮社)

ピノキオブックスで販売中
 








 池田理代子
『ベルサイユのばら大事典』
(集英社)











 三島由紀夫
『春の雪/「豊饒の海」第一部』
(新潮社・単行本初版)











『ピアノの19世紀』
桐朋学園大学音楽学部の教授で、
18、19世紀を主な対象に音楽社会史や音楽思想史を専攻している、
西原 稔さんの力作です(Webコラム)。
最近、全面的に改稿して、
『大陸ヨーロッパ──19世紀・市民音楽とクラシックの誕生』
という単行本になりました。出版はアルテスパブリッシング。
「軍艦、大砲、鉄道、そしてピアノ」という帯の惹句に煽られます。

2010年4月13日火曜日

童心回帰

2月の初め、このポスターを見て以来、ずうっと気になっていた世田谷文学館の『石井桃子展』。2月6日から4月11日まで、開催期間がほぼ2ヶ月もあると油断していたら、いつのまにかあと2週間となった4月4日の日曜日、ようやく重い腰をあげて、文学館に足を運びました。
好運にもその日は、開館記念日だったので、ふだん大人700円の入場料がフリー。気を良くしたまま、入場するなり売店へ。展示会図録を予約しました。

それというのも、図録はいちど完売したらしく、限定500部のみ重刷中と案内されていたからです。すでに予約の受付は始まっていて、もしかすると展示を見ているうちに、売り切れるかもしれません。「何をそんなにあせって」と、やれやれポーズをとる方もいらっしゃるでしょう。でも、人は悔し涙の数だけ強欲になるのです。私も本でなんべん泣いたことか…とくに年々新刊本の逃げ足が速くて…

それはさておき、図録を確保して安心したこともあり、落ち着いてゆっくりと展示を見ることができました。石井桃子は児童文学や絵本の翻訳者・創作者として、戦前昭和から亡くなった平成20年まで、長いあいだ活躍してきた第一人者。(なにしろ101歳で往生)

一般にはA.A.ミルン『くまのプーさん』シリーズや、V.ポター『ピーターラビット』シリーズ、D.ブルーナ『うさこ』(ミッフィー)シリーズの翻訳で知られ、また、『ノンちゃん雲に乗る』などのベストセラー作家でもありました。
とはいえ、私自身は、ジュール・ヴェルヌやマーク・トウェイン、そして何故かピエール・プロブストを読んで育った男の子なので、ちょっと遠巻きに眺めていました。ただ『ノンちゃん』に関しては、小学生のとき、何かの機会で映画を見て、心をゆさぶられた覚えがあります。なにしろ、日本映画史上に残る「美しすぎる母娘」が登場するのですから。

今回の展示は、没後初の回顧展だったこともあり、おいたち・経歴や、作品の案内はもちろん、書斎の再現、稀少な資料や書物の展示、さらにインタビュー映像なども見ることができ、とても充実していました。

この石井桃子展に限らず、没後初の回顧展というのは、遺品整理も兼ねているのでしょうけど、これまでの経験上、見逃せないものが多いという印象です。今後、石井桃子展が全国を巡回するのかどうかは判りませんが、もし機会がありましたら、足を運んでみてはいかがでしょう。

最後に、今回、私のいちばんのお気に入りは、クレール・H・ビショップが物語を書き、クルト・ヴィーゼが絵を描いた、
“The Five Chinese Brothers”。石井桃子は荻窪の自宅一角を開放し、「かつら文庫」と名付け、私設図書室にしていました。そこで、読み聞かせた本のなかで、抜群に人気があったのが、“The Five Chinese Brothers”だったそうです。のちにこの絵本は、『シナの五にんきょうだい』として和訳され、多くの子供たちの目にふれます。
















これは今や貴重な石井桃子訳。現在は川本三郎訳で新刊を入手できます。
『ちびくろさんぼ』と同様に、表記・表現の問題があったためかもしれません。残念なことです。

ちなみに、石井桃子の訃報に接した、阿川佐和子の追悼文によると、休日ともなれば、兄の尚之や近所の仲間と一緒にバスと電車を乗り継いで、「かつら文庫」に通っていたそうです。



---余 談---------------------------------------------------










倉田文人監督で 1955年に公開された映画。
制作・配給は今はなき新東宝。
世田谷と縁のある映画会社で、
いずれ一文書きたい ほど挿話があります。

主人公ノンちゃん役は鰐淵晴子、
その母親役に原節子というキャスティング。

2010年4月8日木曜日

珈琲休憩 もう閉めますよ


世界中に星の数ほど酒場があるのに、どうしてこの店に来たんだ!

年寄りが懲りもせず「もう一杯」と空いたグラスを指さしたとき、
まだ若いウエイターは胸のうちでこう呟いていたのかもしれない。
それは、とある反ナチス・プロパガンダ映画なかで、
酒場の主人が吐き捨てた台詞にそっくりだったが、
ここは1940年代のモロッコではなく1920年代のスペインで、
弾き語りの黒人ピアニストもいなければ、
彼に想い出の曲をせがむ北欧系のブロンド美女もいない。
店にいるのは年寄りの客が一人、
年寄りに苛立つまだ若いウエイターが一人、
そしてもう若くはないウエイターが一人、カウンターのなかにいるだけ。
何よりもこの店は酒場ではなく、カフェなのだ。
「ああいう客は、夜通しやってる酒場にでも行ってほしいよ」
まだ若いウエイターは、同僚に相づちを求めた。
「いや、違うな。清潔で明るくて、居心地の良いカフェだから来るのさ」
もう若くはないウエイターは、
相づちを打つどころか、年寄りの客に共感さえ示した。
「いつまでもカフェに居座って、時が経つまま、やり過ごしたい人間がいる。
たいてい若さや自信を無くした人間さ。
そんな人間のために、店をできるだけ夜遅くまで開けておきたい。
俺だって、そんな人間なんだ。できるだけ今日を終わらせたくない。
さっさと今日一日を切り上げて、ベッドに行けるおまえとは違う」

珈琲や紅茶で一服、あるいは軽い食事をとるのに都合の良いカフェで、
尽きぬ話題に身を浸したり、アルコール類をしたたか呑むと、
人生や芸術の魔に取り憑かれ、
よけいに希望や絶望を感じてしまうのかもしれません。
いや、清潔で明るい場所だからこそ、
絶望を背負った人間がやって来るのだ、
と、アーネスト・ヘミングウェイなら言うでしょうか。
上でつづったカフェの話は、
ヘミングウェイが1926年に発表した掌編小説、
"A Clean, Well-Lighted Place" の、
実にデキの悪いREMIXです。

Casablanca (1942)

"A Clean, Well-Lighted Place" の邦訳は、
私が知るかぎりでもつあります。
岩波文庫は、谷口陸男訳の『清潔な照明の好いところ』。
三笠書房や中央公論社の全集ものにも谷口訳がありますが、
ちがいは確認していません。
高村勝治訳の『清潔で明るいところ』は、
大日本雄弁会講談社、旺文社文庫、講談社文庫、
ミリオン・ブックスなどの本に収録されていますが、
やはり異同は判りません。
佐伯彰一訳の『清潔な明るい場所』は、
学生社、筑摩書房、講談社、
集英社などの選集や全集に収録されており、
少しずつ細部を直しているようです。
龍口直太郎訳の『清潔な明るい場所』は、
荒地出版社の全集と角川文庫の短編集の二つ、
タイトルこそ同じですが、訳し方は違っています。
なお、荒地出版社はヘミングウェイの短編集では、
井上謙治訳の『清潔で明るいところ』を収録。
集英社版の世界文学全集は、
沼沢洽治訳の『清潔で明るい所』。
新潮文庫の旧版は、大久保康雄訳の『清潔な明るい店』で、
新版は高見浩訳の『清潔な明るい店』です。

ややレアなのは、トマス・ピンチョンやジョン・バースなど、
20世紀アメリカ文学の研究・翻訳で知られる
志村正雄が訳した『清潔な、照明のよい場所』。
これは国書刊行会のゴシック叢書のひとつ、
『米国ゴシック作品集』(志村正雄編)に収録されています。
このアンソロジーは、ヘミングウェイのほかに、
ジェイムズ・メリルやポール・ボウルズ、
マーク・トウェイン、ポオらの短編が収められていて、
お得で、おすすめの一冊ですが、
ピノキオブックスでは、まだ売れない本です。

















"A Clean, Well-Lighted Place" の最も新しい邦訳は、おそらく、
昨年の夏、雑誌「Coyote No.38」に掲載された、
柴田元幸訳の『清潔な、 明かりの心地よい場所』でしょう。

ここは清潔な、気持ちのいいカフェなんだ。
明かりも心地よい。明かりがすごいくいいし、
それにいまは木の葉の影もある。

そんなカフェを住んでる街で探しだし、
夜更けまで居座って、珈琲休憩を楽しみたいものです。
[珈琲休憩シリーズ、ひとまず、おしまい]

夜のカフェテラス(V.V.ゴッホ、1888年)

珈琲休憩 ほっといてくれ


19世紀末ウィーンに文化の爛熟が見られるのは、
多民族・多文化を受け入れる帝国だったことが
とても大きいといわれています。
とくにユダヤ人に対しては寛容でした。
むろん、600年を越えるハプスブルク家の支配は
まだ続いていましたし(末期でしたが)、
多民族・多文化も決して目指したものではなく、
リベラルな気運は結果に過ぎなかったとはいえ、
世紀末ウィーンのカフェには多様な人々が集まりました。
文学者のシュニッツラー、ホーフマンスタール、
ペーター・アルテンベルク、エゴン・フリーデル、
批評家のカール・クラウス、画家の画家クリムト、
音楽家のブルックナー、マーラー、
精精神科医のフロイト、哲学者のヴィトゲンシュタイン
建築家アドルフ・ロースなどです。
また、文学とジャーナリズムのあいだを往復する文化人として、
『バンビ』の原作者であるザルテンや
カフェ文士の代表的存在であるポルガーもいました。



『バンビ』の初版本と、ポルガーの『すみれの君』が邦訳で読めるアンソロジー

山積みにされた新聞から一部抜き取り、
珈琲を飲みながらゆっくりと読むのが
カフェ文士たちの日課だったようです。
そのうち知り合いが集まり出すと、
時事に対する情報や意見を交換して過ごしました。

カフェに来るのは、一人っきりになりたいときだ。
一人っきりになるためには、
人が集まる場所に身を置く必要がある。
(アルフレート・ポルガー)

このようなスタイルが極み達するのは20世紀、
1910年代〜20年代でしょう。
ベルリンの「ロマーニッシェス」、
パリの「ラ・クロズリ・デ・リラ」「ラ・ドーム」
「セレクト」「ドゥ・マゴ」「「ラ・ロトンド」、
東京でも銀座の「プランタン」「パウリスタ」
「コロンバン」などが賑わいました。


この時期は、いわゆるロスト・ゼネレーション、
失われた世代がヨーロッパを転々としましたが、
作家のヘミングウェイは最も有名な一人です。

きみは国籍喪失者だ。故国の土との接触を失っているんだ。
きみは脆弱になってしまっ た。偽りのヨーロッパ的基準が、
きみを破滅させてしまったんだ。酒は死ぬまで飲むだろうし、
セックスにはとりつかれるし、朝から晩まで書くこともせずに、
おしゃべりば かりしている。
そういうのが国籍喪失者というものなんだ。
わかったか? カフェをうろついているだけさ。
(アーネスト・ヘミングウェイ『日はまた昇る』)


Let's Have a Coffee Break.

東京渋谷にある東急文化村のカフェ「ドゥマゴ」。そこで発行している冊子に、著名な文化人がカフェをめぐるエッセイを寄稿、それをまとめたもの。吉本隆明、中村真一郎、鈴木清順、辻邦生、出口裕弘、須賀敦子、久世光彦、川島英昭、蓮實重彦、赤瀬川源平、山田宏一、池内紀、末延芳晴、野谷文昭、青山南、亀山郁夫、鷲田清一、中沢新一、鶴岡真弓、沼野充義、中条省平、巖谷國士、柴田元幸など50人が、20か国のカフェの想い出をつづっています。素敵な装幀と挿画は、菊地信義と山本容子の仕事です。

2010年4月7日水曜日

珈琲休憩 お熱いのがお好き

高校時代、家と学校の合間には四つの館があり、授業を脱け出した私をかくまってくれました。
一つめは体育館。
運動部に所属していたので、学校には無い荷重マシンのお世話になりました。もっとも目的は、筋力アップよりは減量でしたが…
二つめは図書館。
当時は今にもまして「本格派の読書家」ではなかったので、どちらかというと新聞と雑誌を読むために通っていました。また、昭和初期の洋式建築が大好きで、そこにいるだけで心地よかったのです。
三つめは映画館。
レンタルビデオどころか、まだデッキも普及していない頃だったので、
プログラム・ピクチャーでさえ見逃せません。
四つめが珈琲館。
でも、UCCグループのチェーン店ではありません。
わけありのママが個人で経営している、場末の喫茶店です。
夜はスナックになり、たまに娘が手伝います。
宵の口まで粘っていると、自分より三つ四つ年上の娘が、
不安定な色香を漂わせていましたが、
それが私を惹きつけていたわけではありません。
私に手招きしていたのは「時には、違法」のゲーム機たち。

珈琲館での私は、蕩尽と後悔のくりかえし。
およそ生産的なこと、創造的なことは起こりません。
前途に明るい光を照らす人物もいませんでした。
およそカフェには伝説が付きものですが、
ツキは全部、ゲーム機が飲み込んでしまいました。

カフェの伝説、もとい伝説のカフェといえば、
私はウィーンの「グリーンシュタイドル」を思い出します。
開業は19世紀なかばの1844年。日本は嘉永年間、幕末です。
20世紀を迎える直前の1897年に閉店しましたが、
約100年の時を経て、1991年に復活しました。

  Café Griensteidl 1896

「グリーンシュタイドル」は、
1848年の春に起こった二つの革命、
いわゆる「諸国民の春」において、
宰相メッテルニヒの体制に異議を唱える活動家たちに、
椅子とテーブル、そして珈琲を提供しています。
ウイーン会議がワルツを踊ったあと、
カフェでは珈琲に浮かせた生クリームのように、
野心や愛国心が泡立っていたのです。

また「グリーンシュタイドル」は、
ウィーン世紀末文化を代表する芸術家や文士が
集まったことでも知られています。
閉店により文化カフェの称号は、
1860年開業の「ツェントーラル」に移りました。
しかし「グリーンシュタイドル」を中心に築き上げた
19世紀ウィーンのカフェ文化は、
一つの様式として世界中で受け継がれています。



Let's Have a Coffee Break.

耐熱グラスにザラメを適量入れて、深煎りの豆から抽出した熱い珈琲を注ぎ、その上に生クリームで浮かべ混ぜずに飲む。これがEinspaenner(一頭立ての馬車)。寒空の下、オペラ観戦の貴族を待つ馭者たちが好んで呑んだという珈琲。つまり生クリームは、味噌ラーメンのラードと同じで、保温のための蓋の役割と風味づけ。