世界中に星の数ほど酒場があるのに、どうしてこの店に来たんだ!
年寄りが懲りもせず「もう一杯」と空いたグラスを指さしたとき、
まだ若いウエイターは胸のうちでこう呟いていたのかもしれない。
それは、とある反ナチス・プロパガンダ映画なかで、
酒場の主人が吐き捨てた台詞にそっくりだったが、
ここは1940年代のモロッコではなく1920年代のスペインで、
弾き語りの黒人ピアニストもいなければ、
彼に想い出の曲をせがむ北欧系のブロンド美女もいない。
店にいるのは年寄りの客が一人、
年寄りに苛立つまだ若いウエイターが一人、
そしてもう若くはないウエイターが一人、カウンターのなかにいるだけ。
何よりもこの店は酒場ではなく、カフェなのだ。
「ああいう客は、夜通しやってる酒場にでも行ってほしいよ」
まだ若いウエイターは、同僚に相づちを求めた。
「いや、違うな。清潔で明るくて、居心地の良いカフェだから来るのさ」
もう若くはないウエイターは、
相づちを打つどころか、年寄りの客に共感さえ示した。
「いつまでもカフェに居座って、時が経つまま、やり過ごしたい人間がいる。
たいてい若さや自信を無くした人間さ。
そんな人間のために、店をできるだけ夜遅くまで開けておきたい。
俺だって、そんな人間なんだ。できるだけ今日を終わらせたくない。
さっさと今日一日を切り上げて、ベッドに行けるおまえとは違う」
珈琲や紅茶で一服、あるいは軽い食事をとるのに都合の良いカフェで、
尽きぬ話題に身を浸したり、アルコール類をしたたか呑むと、
人生や芸術の魔に取り憑かれ、
よけいに希望や絶望を感じてしまうのかもしれません。
いや、清潔で明るい場所だからこそ、
絶望を背負った人間がやって来るのだ、
と、アーネスト・ヘミングウェイなら言うでしょうか。
上でつづったカフェの話は、
ヘミングウェイが1926年に発表した掌編小説、
"A Clean, Well-Lighted Place" の、
実にデキの悪いREMIXです。
Casablanca (1942)
"A Clean, Well-Lighted Place" の邦訳は、
私が知るかぎりでもつあります。
岩波文庫は、谷口陸男訳の『清潔な照明の好いところ』。
三笠書房や中央公論社の全集ものにも谷口訳がありますが、
ちがいは確認していません。
高村勝治訳の『清潔で明るいところ』は、
大日本雄弁会講談社、旺文社文庫、講談社文庫、
ミリオン・ブックスなどの本に収録されていますが、
やはり異同は判りません。
佐伯彰一訳の『清潔な明るい場所』は、
学生社、筑摩書房、講談社、
集英社などの選集や全集に収録されており、
少しずつ細部を直しているようです。
龍口直太郎訳の『清潔な明るい場所』は、
荒地出版社の全集と角川文庫の短編集の二つ、
タイトルこそ同じですが、訳し方は違っています。
なお、荒地出版社はヘミングウェイの短編集では、
井上謙治訳の『清潔で明るいところ』を収録。
集英社版の世界文学全集は、
沼沢洽治訳の『清潔で明るい所』。
新潮文庫の旧版は、大久保康雄訳の『清潔な明るい店』で、
新版は高見浩訳の『清潔な明るい店』です。
ややレアなのは、トマス・ピンチョンやジョン・バースなど、
20世紀アメリカ文学の研究・翻訳で知られる
志村正雄が訳した『清潔な、照明のよい場所』。
これは国書刊行会のゴシック叢書のひとつ、
『米国ゴシック作品集』(志村正雄編)に収録されています。
このアンソロジーは、ヘミングウェイのほかに、
ジェイムズ・メリルやポール・ボウルズ、
マーク・トウェイン、ポオらの短編が収められていて、
お得で、おすすめの一冊ですが、
ピノキオブックスでは、まだ売れない本です。
"A Clean, Well-Lighted Place" の最も新しい邦訳は、おそらく、
昨年の夏、雑誌「Coyote No.38」に掲載された、
柴田元幸訳の『清潔な、 明かりの心地よい場所』でしょう。
ここは清潔な、気持ちのいいカフェなんだ。
明かりも心地よい。明かりがすごいくいいし、
それにいまは木の葉の影もある。
明かりも心地よい。明かりがすごいくいいし、
それにいまは木の葉の影もある。
そんなカフェを住んでる街で探しだし、
夜更けまで居座って、珈琲休憩を楽しみたいものです。
[珈琲休憩シリーズ、ひとまず、おしまい]
夜のカフェテラス(V.V.ゴッホ、1888年)
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