1810年、ショパンが生まれた年に、栄華を極めていたナポレオンがオーストリアのお姫様と再婚した。これは、せっかく世襲制の帝政を敷いたものの、前妻とのあいだに子供ができなかったことが理由とか。縁組みをしたのはオーストリアの外相メッテルニヒ。抜け目ない。さすがハプスブルク家の切り札。もっともナポレオンは、すでにエジプト遠征に失敗し、続いてカリブ海の植民地サン=ドマングで起きた独立戦争に敗れていた。だから、不吉な予兆の暗雲は、とうに垂れ込めていたと言えるだろう。ちなみに1804年、ナポレオンに初黒星をつけて独立したのがハイチ共和国。これはアフリカ系の人々による史上初めての近代的共和制であり、かつ黒人奴隷を解放する革命だった。この3月にハイチを襲った大地震は、かねてからの混迷と荒廃をさらに深めてしまったけれど、独立時の矜恃(きょうじ)を早く取り戻してほしいと願う。
ナポレオンが法や軍事などの近代化を押し進め、神聖ローマ帝国を倒し、フランス革命の理念をヨーロッパの諸国民に輸出したことは、この僕も中等教育の中で習ったが、その陰でピアノの普及がはじまっていたことは学校で教わらなかった。ピアノ自体は18世紀の初めにイタリアで原型ができ、その後はドイツを中心に改良が進む。18世紀後半までには音楽の都ウィーンをはじめヨーロッパの大都市には、ぼちぼち見られるようになっていた。1750年に死んだ大バッハは、ピアノの製作者に求められ、助言を与えたものの作曲活動には間に合わず、1791年に死んだモーツァルトは、この新しい楽器の音色に感激して愛用し、1809年に死んだハイドンは1790年代まで様子を見たという。そして、1770年生まれで1827年まで生きたベートーヴェンは、ハイドンの弟子となって故郷のボンを離れ、ウィーンに「上京」、ようやくピアノを弾くことができた。なにしろピアノは当時、高価な最新楽器だったから、田舎で苦しい家計を支えていたベートーヴェンには手の届かないものだったのだろう。
モーツァルトが活躍した1780年代、ピアノはまだまだ成長期で、鍵盤は60くらい(現在は88くらい)、音量も今と比べて小さく、明るくて軽やかな音色しか出せなかったみたいだ。それがベートーヴェンが活躍する1800年代初めには、大きく改善されて鍵盤の数も70前後になり、ロマン・ロランがいう「傑作の森」の時代を支えたことは間違いない。
1810年、ベートーヴェン40歳。この年、今では誰もが知っているピアノ曲〈エリーゼのために〉を作曲する。その背景にはテレーゼなる貴族の娘とのかなわぬ恋愛、身分格差で結婚できなかったエピソードがあるという。ピアノとラブロマンスが結びついた楽曲が世に出た年に、「ピアノの詩人」ショパンが誕生したというのも象徴的だ。
(つづく)
鹿島茂
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ベートーヴェンは
騒々しくてロックな奴!
と断じるところが小気味よい
「鎧としての筋肉、または、
病理ではなく生理としての退廃
ミケランジェロとベートーベン」
などのコラムを収録
「エリーゼのために」のメロディを使った昭和歌謡ふたつ、
不世出の双子デュオ、ザ・ピーナッツの「情熱の花」と、
ダンスアレンジ(ツイスト)でヒットした、
ザ・ヴィーナスの「キッスは目にして!」。
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